「友よ未来をうたえ」(労働旬報社:1975)を久々に読み返した。
闘いの記録である。
ある意味で言うと、労働組合側からの偏った記録なのだが、演奏者も労働者であり、演奏するからには給料をもらわなくてはならない。仕事がなくなる時には、闘うのが当然だろう。
とにかく熱い。
読み進めていくうちに、どんどん涙が出てきた。
1972年3月、フジテレビ・文化放送から楽団運営資金の打ち切りを宣告される。
3月29日、日比谷野外音楽堂に読売日響、都響メンバーの友情出演も得て、日フィルの第1回ガンバレコンサート開催。ここから、闘いの記録が始まる。
演奏会終了時にオーケストラのメンバー全員が着席のまま、演奏を終えた労働組合委員長がマイクを持って支援の挨拶をするというのは、ある種異常な光景ではあったが、当時の日フィルの団員の状況を、熱く聴衆に伝えていた。
聴衆として、そうした場に何度か立ち会った際に感じた「共感」によって、日フィルには「特別」なものを感じる。
「市民とともに歩むオーケストラ」というキャッチフレーズは、どこのオーケストラでも使う言葉であるが、あの時代の日フィルの場合は、それを団員一人一人が実行していた。
地方の第9の合唱団の打ち上げに、団員が楽器持参で居酒屋に同席するなど、他のオーケストラのメンバーはやるだろうか。そこに来てくれて、いっしょにお酒を飲んでくれるだけでも、もの凄くうれしいことだ。さらに、居酒屋で演奏までしてくれた日フィルの団員には、ただただ「凄い!」と言うしかない。
当時の模様は、バイオリンの松本克巳さんの写真による
「あの頃の日本フィル」で甦ってくる。
私の場合、幸い、日フィルの演奏に裏切られたことは一度もない。
他のオケでは、地方公演でいかにも手抜きをしているような演奏に出くわすことがある。
日フィルは、地方公演でも絶対に手抜きをしていなかったと思う。
聴衆を圧倒する演奏を終えての「委員長の挨拶」だからこそ、「共感」が生まれたのだ。
日フィルの場合、感動的な演奏会が多々あるので、その中のNo.1のものは、1985年の北海道
津別町の演奏会。
津別町開基100年の記念コンサート。町民合唱団の「ハレルヤ」の後に、ドボルザークの「新世界より」が指揮:山田一雄で演奏された。
この時の「新世界」は思い出すたびに、胸が熱くなる。
山田一雄氏の唸り声は、魂を揺さぶるようだった。
演奏を聴いている途中から、100年前にこの土地を切り拓いた人々のことが思い出され、「新世界より」という言葉が頭の中でぐるぐると回っていた。
アメリカに渡ったドボルザークが書いた曲は、フロンティアとしてこの土地を拓いた人々を讃える曲として最もふさわしいような気がして、そうしたシチュエーションがいやがおうにも感情を盛り上げた。
思わず、大声でブラボーを何度も叫んだ。
にっかつで映画化された「日本フィルハーモニー物語・炎の第五楽章」(1981)は、実在の人物は仮名が使われていたが、楽屋シーンなどでは、本物の日フィル団員も映っていた。風間杜夫と田中裕子を中心に、「あの頃」を再現した映画。
1984年の「和解」により関係者の長い長い闘争は終結した。
悲しい出来事ではあったが、日フィルと日フィルを愛するものにとっては、今も「心と心を結ぶ」、大きな財産のように感じる。
スポーツ界でも似たような出来事は絶えない。
1998年11月14日(土)、札幌厚別公園競技場において、横浜フリューゲスのリーグ戦最終試合が行われた。私は、アウェイのフリューゲスファンのすぐ後ろで試合を観戦していた。フリューゲルスサポーターの気持ちが痛いほど伝わってきた。「大切なものがなくなってしまう」というファンの気持ちはつらい。
オリックスとバッファローズの合併も、経営者側の事情によるもの。
資本主義社会の中で、チームの身売りは仕方がないかもしれないが、ファンの立場はどうなるのか。かつての日フィル闘争と昨今の球団事情がタブって見える。
ともあれ、現在の日フィルは2004年6月に「炎のコバケン」小林研一郎氏を音楽監督とし、新たな「闘い」を始めている。コバケンファン、日フィルファンとともに、これからもしっかりとした歩みを続けていくことだろう。なによりも聴衆を大事にする日フィルは、特別なオーケストラとして、今後も大切にされていくものと思う。
日本フィルハーモニー交響楽団